2021-02-24 Wed
暖かくなってきたので、ゆっくりとプラモ作りを再開しています。
グレンコ社の古物キット、マーチンMB-2が少し形になってきました。
1920年代のアメリカ陸軍の主力爆撃機です。
機首を丸くした郵便機に改造するのもいいなあと思いましたが、今回はキットそのまま
作ることにしました。

プラモは1950年代末のオールドプラモですが、まあまあいい形をしています。
エンジン部も古物キットとしては良く再現されています。
でも排気管の部品がついてません。これは自作しなくては。
エンジンをむき出しにしていた機体が多いのですが、なかにはエンジンカバーつきのもの
もあるので塗装によっては注意が必要です。
また、爆弾架や着陸灯、発電機ファンなども追加したいです。

ほかに、旧エルエスの97式司令部偵察機を2個、組立中です。
これも塗装のバリエーションが豊富な機体。
あまり見られない塗装でつくりたいです。
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2021-02-21 Sun
暖かい一日です。冬の間、寒さを避けて玄関に入れてきたゼラニュームの鉢を日差しに出しました。
とはいえネタ切れであります(笑)。

引っ張り出してきたのは、昔古本屋で100円で買ったトレードマークの本。
1940年代から50年代のトレードマーク集です。
個性あふれるトレードマークを眺めているのも楽しいです。
この時代は、原子力や宇宙開発などが時代の最先端になっていましたから、トレードマーク
にもそうした題材がたくさん使われています。

これはウェスタンユニオンテレグラフカンパニーの商標です。
アメリカは科学や工業全盛の時代でした。
宇宙を思わせるデザインを採用した会社がたくさん出てきます。

これはコンソリデーテッドフレイトウェイズという航空貨物会社のトレードマークです。
こうした航空関係の製造や輸送会社もたくさん扱われていて、私がこの本を買った理由
の一つです。
中身は基本的には白黒ですが、この時代の雰囲気が伝わってきて、ぺらぺらとページ
をめくって眺めるには面白い本です。
こういう無駄な本もあっていいかなあと思います。
2021-02-17 Wed

これは、ロッキードXFV-I垂直離着陸機のナナニイです。
ペガサス社が20年くらい前に発売したもの。
実機は1954年に普通の飛行機のようにして離陸に成功したものの、とうとう垂直離陸に
チャレンジしないままお蔵入りになった実験機です。
あまりに危険すぎたからってことですね(笑)。

こんな姿になってくれるといいんですが。
この機体はバロム社から新しいキットが出たためか、中古市場でペガサスのキットは安く
なってきました。KP社のコンベア ポゴと並べて置きたいなあとおもいます。

もう一つが、ボーイング モデル40のナナニイ。
マーリンモデルのキットで、1920年代後半からアメリカの国内郵便輸送機として使われた
航空史に残る飛行機です。
アメリカでは有名機で、付属デカールもその塗装になっています。
でも私はその後に用済みになって中南米に売られた機体の塗装にしようかと。
キットは、胴体だけ透明部品で出来ているのが驚き。
メーカーが胴体窓を部品化したくなかった(できなかった?)ってことなのかな。
どちらも私の技術では綺麗に作るには荷が重いですが、まあチャレンジということで。
2021-02-15 Mon
戦争中、日本人の捕虜たちが編集してB29などから日本国民に播かれたビラにはフィリピンの捕虜の手になる「落下傘ニュース」と、ハワイの収容所で作られた「マリ
ヤナ時報」がありました。

上の写真はポツダム宣言を伝える「マリヤナ時報」号外です。
このビラでポツダム宣言の内容が国民に知られたことで、日本の指導層に敗戦処理
を急がねばと考えさせたと言われています。

オーティス・ケーリは、この「マリヤナ時報」を作った捕虜たちがいた収容所の所長で、
終戦後も日本の同志社大学に勤めながら元捕虜たちと交流を続けた方です。
昭和25年に発行された著書 「日本の若いもの」にその経過が詳しく記されています。
日本軍に捕虜はいないとされていた中で
「自主的に投降した者でも、始めから国に帰って再起することを念頭においていた者は
なかったと言っていいのじゃないか。大部分が無国籍者として異境に余生を送ることを
考えていたようだ。」
「(昭和20年の)3月に入って、連日のように日本本土爆撃の報が壁新聞に現れた。
一旦過去のものとして忘れようとしていた戦争が、自分の家族や友人の上に迫りだす
と、再び生々しい現実として戦争が俘虜を苦しめだした。」
そして国民が犠牲になる前に戦争を終わらせたいという機運が生まれて、戦争の実相を
国民に直接伝えるビラの編集が始まった。
ケーリ自身もこれには慎重だった。
「少なくとも私は、そういうきわどい仕事を、こちらから持ちかけることは慎んでいた。」
「しかし今度の場合はそうではなかった。とうとう自分たちでがまん出来なくなって、言い
出したのだった。それがいいことか悪いことかは議論の外で、これをやらなければ嘘じゃ
ないか、そういう心情のほとばしりだった。」
「戦争を一日も早く終わらせたい。そのためには売国奴と罵られても敢えて忍ぶ。われわ
れこそ、真の愛国者だと信じる。この一点だけで共通していた。」
これに関わった人は20~30人くらいだった。
収容所は300人くらいの規模だったから、割合で8%くらい。
戦後は新聞人や教授になった人もいるが、大半は庶民としてすごし、みな捕虜時代の
こと沈黙したまま亡くなった。
ケーリによれば彼ら捕虜が戦後の日本について語り合った事柄はすべて、現実にその後
日本が直面した課題だったという。
その彼らが、何も言わずにただ自分の信念を貫いて戦後日本を生き抜いたということは、
私が今感じていることと何か通じるものがある。
たった8%でも新しい生き方をすることで社会はゆっくり変わっていく。そういう変り方が
本来の社会の在り方ではないか。
だから、大切なことは二つだけじゃないだろうか。
異なる考え方があることを認めあうことと、自分の考えが時代を後ろに戻すことにならない
よう常に自戒すること。
オーティス・ケーリの「日本の若い者」
飯田市図書館がこのボロボロの本を保存してくれていて感謝です。
版権の関係からか再販されていません。
個人と国家を考えるのにいいテーマですが、残念ながらあまり良い本がありません。
この件に関しては上前淳一郎「太平洋の生還者」がありますが、こちらも絶版みたいです。